冷めたところで小保方問題


私は理系の,それも理論系を学んだ人間である.しかも,現在もその方面に関連した仕事に携わっている.そのことから,

サイエンティストというものは,最低限自分の研究に関わる真理というものには厳格で,それをrespectするものである

と信じてきた.しかし今回の小保方問題を見るに,残念ながら分野によってはこれは正しくないようである.

小保方氏は論文の中でデータとは違う画像を使い,しかもそれを指摘されると「単なるミスである」と言ったらしい.私はこれを聞いて呆れ返ってしまった.中身と違う資料で論証するという行為自体があり得ないもので,上に書いた意味で真理に対する冒涜だ.しかもそれを行なったことに対して科学者としてまったく悪びれたところが感じられないコメント.正直,一体どういう精神構造をしているのだと思った.また,小保方氏の学位論文で20頁に及ぶ他の論文からのコピーが見つかったことにも驚いた.科学的な事柄は一般に普遍性があるため,論文毎で基本的事実などの記述はそんなに変わらないことは理解出来る.例えば,ピタゴラスの定理の記述は誰が書いても似たようなものになるだろう.しかしそれが20頁にもなるというのはもう論外である.学術論文をなめているとしか思えない.

ところが更に驚いたことに,彼女だけではなく他にも他の論文からのコピーを行なっていると疑われる論文が数多く存在することが明らかになり,また理研の研究者の論文の中にも画像を細工したものがあることがわかってきた.こうなってくると冒頭に挙げた私の信念は打ち砕かれたと言ってよい.

一般に,実験系の研究者は理論系に比べて論文数が多い.また,その論文の大半が共著論文で,第一著者であるものに本人の論文としての価値が最も認められるとされる.今回の件をみるとそういった従来の見方,あるいは実験系の論文の価値自体に疑念が広がってしまう.

また,この”事件”の当初,「彼女の研究者としての倫理観の欠如はそれをきちんと指導しなかった方に問題がある」といった言説が主に彼女を擁護する立場からなされていた.しかし,これは噴飯ものの意見である.彼女が欠いている倫理は「対象をきちんと観察する」,「論理的に考察して何らかの結論を導く」といった科学研究の基礎の大きく下に位置するものである.例えてみれば,オリンピックの予選に出るアスリートがそのユニフォームを正しく着れるかどうかを問題にしているようなものである.そのようなものは本人の責任で身に付けるべきもので,それが身に付いていないことに対して,研究機関を非難することはお門違いも甚だしい.小保方氏については,雑音に惑わされず公正に粛々と処分さればよいと思うのである.

また,今回の件で改めて感じたのは日本社会の不正についての甘さ,そして非論理性である.非論理性とは,小保方氏のように特別な注目を集めた事件はその重要性の如何に関わらず大々的に問題とするが,耳目は集めにくいが実際はもっと重要な不正,例えば厚生省の役人と研究者が共謀して行なったデータのごまかし,などにはまったく無関心である.また,発覚された側も通り一遍の謝罪でお茶を濁し,当事者に対する処分も甘い.マスコミも追求しない.したがって再発防止などとはほど遠い.オリンピック誘致に際して,安倍晋三が大嘘をついても,スポーツ選手はまったく非難しない.招致が決まって喜ぶ人々を見て私はやるせなかった.嘘をついて勝ち得たオリンピック招致がそれほどうれしいのだろうか?私には理解出来ない.正々堂々と戦うスポーツマンシップとは何だったんだろう?

公職にあるものは,嘘をつく・ごまかすという行為をすれば厳しく罰せられるということが無ければこの社会はいつまでたっても歪んだままになるだろう.

 

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